旅風里美の気まぐれスタイル 聖書から見る日本人の特性

日本のしきたりや風習…あまりにも聖書の記述と一致することが多い…その理由とは…

 神道のしきたりは旧約聖書の記述に近いものが多い。日本人の考え方は聖書の教えに近い部分が多い。キリスト教国ではない日本がなぜここまで聖書の教えに近いのか?聖書を元に日本人の考え方を考察していくことで、本来歩むべき道が見えてくると思うのです。


日本人と聖書

 日本人にとって聖書とは、異教の教典と言ったイメージが強い。そして、欧米各国が世界中を自分たちの奴隷状態にしたことから、聖書を悪魔の教典と位置付ける人たちもある。キリスト教徒以外では聖書になじみのない人が圧倒的に多い。それでは果たして聖書の教えは日本人には受け入れられないものなのだろうか。

 日ユ同祖論というのがある。日本人とユダヤ人は祖先を同じくしているという説で、スコットランド人ノーマン・マックレオドという人が論じた説である。さらにユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーグやラビ・マーヴィン・トケイヤーによる論説も日本人の風習がユダヤ人と酷似していることが書かれている。

 ユダヤ人は旧約聖書の教えを土台にしたタルムードの教えに従って生きている。そして、日本の宗教行事や習慣などが旧約聖書に書き記されている事柄に非常に近いことが、同祖論の元になってると言える。

 清帝国時代、北清事変が起きたとき、…この時は各国の大使館員が殺害される事態となったが…各国は一般市民も含めて攻撃し、多くの一般市民に犠牲者が出た。ところが、日本だけは紳士的に行動し、一般市民に危害を加えなかった。これはイエス・キリストの言う「あなたの右のほおを打ったなら反対側のほおおを向けなさい…すなわち敵に対してやり返したりせず、冷静に対処しなさいということ。

 キリスト教各国がイエス・キリストの教えに背いて虐殺を行なう中、日本だけがイエス・キリストの教えに従い、冷静に対処した。これは旧約聖書のみならず、新約聖書の大切な教えが根付いているということを物語っている。

 古代日本では旧約聖書に多く出てくる石の祭壇に近い磐座(いわくら)と言う祭壇の前で祭を行なっていたことが、各地に残る磐座が示している。それなら、現在に至るまで、古代イスラエルの民と同じく、敬虔で信仰心に満ちた社会がつながっていたものと思われる。そして、聖書はその時代に合ったものが日本に逐一入って来て、その教えによって社会を構築し、政治を行ない、国家の運営をして来たのではないだろうか。

 そう考えると日本人にとって聖書はまったく無縁のものではなく、いや、キリスト教世界以上に聖書の教えが一人ひとりの中に息づいているのではないだろうか。

日本と中国や北朝鮮・韓国はなぜにこうも考え方が違うのか→→→日本と中国・朝鮮の明暗分けたもの

 

日本人が中国人や朝鮮・韓国人を蔑視するわけ

 現在、在日バッシングが広がり続けている。ネット上では中国人や韓国人に対するヘイトスピーチも当たり前のように書き込まれている。本来、日本人はあらゆるものを寛容に受け入れてきた。それゆえ高度な文化を醸成して来たはず…である。まずは、なぜ起きるかという原因を考えてみることにしよう。

 日本人の差別感情は日本人の良識に反することを行なう団体・民族に向かう。それゆえ、この日本人の特性を無視した活動をする団体は精神を病んだり、犯罪もどきに走る傾向がある。勧誘系宗教の団体員がおかしな行動をとるのは本来あるべき日本人の常識から逸脱したことによって起こる。

 その成れの果てがオウム真理教のテロと言うことになる。決して他人事ではなく、勧誘系宗教に属しているすべての人に対する警告となっている。そして、最近ではこう言った宗教団体の成員はイベントなどから閉め出される傾向にある。

 それでは、在日が叩かれるわけは。……

 長州力さんの少年時代の話を考えてみるとその問題が見えてくる。朝食の内容に関してごねると、火箸を投げて突き刺す、傘に関して文句を言うと傘を投げて突き刺す。自分の子どもを刺すというのは殺人者に等しい。そう言う観念が日本人にはあるのではないだろうか。そして家庭内であるならばまだしも、子ども同士のケンカでもそうした行動に出る。そうなると朝鮮人はヤバい、在日は排除しなければと言う考えになる。

 社会を乱す狼藉者。そう言った感情は教師もクラスメートも在日に対して暴力を与えたり、いじめたりすると言う事態になる。

 しかし、よく考えてみれば、母親の料理にケチをつければ、怒るのは当然のことと思うはずで、民族的気質や特性によって大小強弱あるだけで、みんな同じことを考え、やっているのである。特に利己的な考えで相手に接する風潮が強い現在は、攻撃してくる連中に対して攻撃し返すという図式ができて来ている。

 これはいったいどこから出てくるのだろうか。それは自分の感情や欲望や経験から組み出された間尺、すなわち自分勝手な尺度やルールによって物事を判断する所から出て来ているのではないだろうか。

それではいつからこんな問題が出て来たのだろうか→→聖書が指摘する危険性