旅風里美の気まぐれスタイル 聖書から見る日本人の特性

日本と中国・朝鮮の明暗分けたもの

 日本人と中国人と朝鮮人(韓国人)は風貌は似ているが、考え方はまるで違っている。(注意してみると風貌もやや違っている。言語によるものだろうけど)その違いはどこから来るのだろうか?


イザヤ書24章15〜16節  
  それゆえ、東でヤハウェをあがめ、海沿いの国々でイスラエルの神、ヤハウェの名をあがめよ。われわれは地の果てから、賛美の歌を聞いた、「栄光は正しい者にある」と。

 イザヤ書にあるように東の果てにある島々が新しい約束の地だと解釈したイスラエル難民がどんどん大陸を横断し、中国沿岸部に滞留するようになったのだろうという仮説は中国の東夷伝に書かれている特徴が表している。ただ、中華民族にとっては東方の外国人という取らまえ方だと思う。日本人の祖先がイスラエル人・ユダヤ人だとすれば、旧約聖書の教えに基づいた風習があるはずで、実は日本の風習や神道のしきたりの多くは旧約聖書の記述に似た部分がある。弥生時代の風習や生活を考えてみれば、聖書の士師記の世界に近いように思える。

 中国は常に王や皇帝が立ち、その王国や帝国が民衆を自在に支配してきた。そして王は王に皇帝は皇帝に戦いを挑むことも多かった。臣民は王のためにあると言ったそんな風潮が中国にはあった。一方、日本では逆に王は臣民のためにあると言う風潮で、それゆえ臣民は王に対して深い愛情と尊敬の気持ちを持って常にまとまっていたのではないだろうか。これは日本人と中国人がまったく違う考え方である基でもある。

 日本は長らく神に仕えることを大切に考え、神を第一にすることを大切にしてきた。それは集落ごとに神社があり、祭ともなると住民が集まり、一体となって祭を行い楽しむ…そう言った風習は利己的な考えを許さず、常に和合と協調を重んじる考え方を育んできた。それは他国に侵略されたり、支配下に置かれない国として存続し続けてきた。江戸時代末期には、西洋の支配下に置かれない国は日本だけと言った状況であった。

 中国はどうだったかと言えば、王朝が常に滅亡して別の王朝が立つと言った状態で、そのため、民衆は常に時の権力者にこびへつらうと言ったことが多かった。そして、自分たちで自分の国を守るという意識が希薄で、しかもおごり高ぶる気質もあった。結果、中国はモンゴル帝国の支配下に置かれたり(元)、満州帝国の支配下に置かれたり(清)するハメになった。ついにはアヘン戦争で敗北するとイギリスの意のままにされるようになった。第二次世界大戦中も戦後もアメリカとソ連によって翻弄された。(アメリカ→蒋介石、ソ連→毛沢東)

 

 弥生時代に沿岸部にいた九夷や4世紀に渡って来た秦氏や、6世紀に渡って来たキリスト教ネトリウス派のクリスチャンなど、神の教えが多く中国に渡り、中国の多彩な文化が花開くこととなったが、中国人が重要視していたのは朱子学で、現在もなお、朱子学を重視した学問が大切にされている。しかし、朱子学による考え方は権力志向が強くなる。そして、特権意識故に自分たち以外を蔑視する傾向がある。このことは今の中国人の忌むべき行動の基となっている。多くの国から厄介者扱いされる…そんな国民に成り下がってしまったのである。

 日本には恥の文化があるが、そのもとの教えは聖書のモーセの律法にある「それは父の恥である」「それは母の恥である」他人に裸をさらすことは、妻の場合夫の、娘やおばの場合は母の恥として書き記されている。このようなモーセの律法に忠実にしたがって生きてきたからこそ、その後4世紀に渡って来たキリストの福音と合わせて、賢く生きる方法を身につけたのではないだろうか。

 このように、神を大切にする考え方や律法に基づいた罪や恥の考え方は、日本人が中国人とはまったく違った価値観を生むようになり、中国人が朱子学を重んじるのに対して、日本人は陽明学を重んじるようになった。そして、この陽明学の考え方が、日本を開国後一気に先進国に押し上げる要因ともなった。それだけではなく自衛のための戦争が、やがてはアジアを巻き込み、アジア各地に自分たちの国は自分たちで得る、そして守るという考え方を定着させ、それが植民地解放につながった。

 朝鮮はもともと北部にあった古朝鮮人の国、箕子朝鮮が始まりだったが、中国から亡命してきた衛子によって滅ぼされ、現在のソウル近郊に馬韓を建国。辰韓や弁韓から文化が入り込んで、百済時代には仏教の美術や文化が花開いた。しかし、李氏朝鮮の時代、中国に倣ったことで、中国に隷属する一方、中国から遠い国は見下すようになった。つまり、李氏朝鮮時代から現在に至るまで侮日思想は変わっていないわけだ。

 聖書の教えに基づいて考え行動するか否かは、日本人がますます世界中に賞賛される一方、中国人・朝鮮人・韓国人が世界中のそしりの的になっていることが如実に物語っているように見える。