旅風里美の気まぐれスタイル 聖書から見る日本人の特性

聖書の始めから指摘されていた間尺の危険性

 よく「自分の間尺に合わない」という言い方がある。それによって怒ったり、攻撃的になったりする人は多い。しかし、その結果は悲惨なものとなる。信用を失ったり、友人や恋人との中が分裂したり…人類の始めからその危険性は指摘されていた。


創世記4章5〜7節  
 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこでヤハウェはカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しいことをしているのでしたら、顔を上げたら良いでしょう。もし正しいことをしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。」〜

 ここで、神ヤハウェは適切にも間尺による判断の危険性を教えておられるのです。そして、その後に起きる悲劇の数々はその最初の教えに背いた結果として聖書中には多く書き記されている。

 そもそも否定されて怒りに燃えるのは自分のルールや尺度、つまり間尺によってすべてを判断し、裁くから。そして人は人を完全に支配することはできないし、相手は自分の思い通りには動かないということは、いろいろな問題点を見れば明らか。それぞれが個性や特質があって、それを受け入れたり受け入れてもらったりしながら協調することが本当は必要なはず。

 もし、自分の間尺によって判断せずに相手の立場やスタイルを許容しながら生きて行くことができるなら…その時初めて在日や外国人に対して良くないことはよくないと言えるのではないだろうか。そうして相手が暴力に訴えるならその時に地域から追い出せばいい。ここは彼らの土地ではないのだから。

 日本人の立ち居振る舞いは今や世界中から賞賛されている。その賞賛されるべきことを大切にすることが賞賛されるにふさわしい者となる。そしてそれを広めていくことこそが、世界中が平和で幸福になる元ではないだろうかと思う。

 

 相手の悪に対して悪を返すのは、相手と同じレベルに落ちてしまうことだ。そんな低いレベルで生きて行っていいのだろうか。せっかく日本人として高尚な生き方を教え込まれ、賞賛される行動をとっていながら、見下されるものたちと同じ下等な生き方をしていていいのだろうか。

 もし本当に自分が善良な日本人だと自負するなら、自分の間尺に合わない人を攻撃したり、立場が下の人に対して圧力をかけたりすることは厳に慎むべきである。それは日本人の本来の良識からすると許されざる暴挙である。

 利益団体や宗教団体は自分たちが正しくなければならないと言う考えに縛られている。ただ、一般社会とぶつからない範囲であれば問題がない。しかし、一般社会を見下すような考えが蔓延しているなら、自分たちの間尺で見て考えて行動しているのであって、決して平和を求めることはなく、むしろ争いを巻き起こしている。そんな組織に所属していることは精神を病んでしまう元にもなりかねない。

 実際そう言った宗教団体の人たちは、礼儀正しくて表面上は善良な人たちだ。しかし、ひとたび宗教の論争になると、相手をねじ伏せようとし、悪霊や悪魔の力を借りようとしている感じさえする。そして論破すれば逆ギレする。それが正しい行ないなのだろうか。

 むしろ信者の中に精神異常者を生んでしまうのではないだろうか?その成れの果てがオウム真理教の一連の事件ではなかっただろうか?このことはすべての勧誘系宗教に共通する問題だと言える。