旅風里美の気まぐれスタイル イザヤ書から見る古代日本の謎

神武東征の謎

 神武東征には謎が多い。聖書の出エジプト記から申命記までの下りに似ているのだ。それゆえ、イスラエルから日本へ移住した記述を西日本に限定して書き直したという説も出て来ている。イザヤが民を率いて東の果ての島々に行ってたと考えて調べてみると意外なことがわかってきます。


 今では縄文人は台湾から沖縄に渡り、本土に向かったという説が有力で、台湾から沖縄まで草舟で渡る実験もされているようだ。たしかに縄文人は東南アジアから北上し、日本に住み着いたようだ。さらにおもしろいことに、縄文人はアイヌ人と近い関係にあると言う。たしかに、アイヌ人の風習は縄文時代の風習に共通する面はある。では、弥生人はどうか?

 人口統計学では、弥生時代に異常な人口増加があったそうだ。いわゆる「弥生ショック」。しかし、イザヤが信仰の強い人たちを率いて南ユダから日本へ向かったとするなら、イザヤ書の預言から東へ向かった難民がいる可能性がある。事実、弥生時代の人口の前後の増加の誤差は20数万人、南ユダ王国でヒゼキヤ王の時代からエホヤキン王の時代までで消えたユダヤ人が20数万人。大陸を横断し、台湾から沖縄経由で本土に渡って来た可能性は否定できない。

 さて、縄文人も弥生人も台湾から沖縄に渡り、沖縄から本土に入ったとすれば、イザナギ(イザヤ)、イザナミ(イザヤの妻)、ツクヨミ(シェアル・ヤシュブ)、スサノオ(マヘル・シャラル・ハシュ・バズ)、カム・ヤマト・イワレ・ビコ(神武天皇・ヒゼキヤ王の消された長子)が沖縄から本土に渡り、拠点を築く史実が日本神話の本質なのかも知れない。

 そう考えてみると、神武東征のルートも理解できる。日向の地、宮崎に上陸したのは鹿児島が桜島など噴火の危険性のある場所だったから、危険を回避しながら九州を鹿児島沖から東に回り、安全で食料の確保もできる宮崎の上陸したものと考えられる。そして、彼らの風習として山の上で神の前に立ち、誓いを立てると言うまつりごとがあったと思う。そして、彼らは高千穂で神に誓いを立て、新たな出発を心に山を下りて行動を始めた。

 

 沖縄から、本土に向かうには、南西諸島沿いがいい訳だが、いかんせん潮の流れが速い。そのため、大陸沿いに移動する分隊もあったかも知れない。それがツクヨミとスサノオだったのではないだろうか。そして彼らも島根半島に上陸し、三刀屋に集落を形成したと思われる。三刀屋が出雲文化のもっとも古い地域だからである。

 イザナギとイザナミとカム・ヤマト・イワレ・ビコは九州を北上。本州に入る。後に四国に渡るなら、国東半島から八幡浜に渡る方がいいのに、本州に渡った。おそらくイザナギ、イザナミはツクヨミ、スサノオと会うために本州に渡ったのではないだろうか。そして、広島から出雲へと向かった。

 イザナギ、イザナミが北へ向かったあと、本隊は四国に渡ることになる。なぜ四国か。おそらく剣山を聖なる山として祭司たちが登る目的だったのではないだろうか。そして、伊予三島辺りから吉野川流域へと渡り、そこから祭司族たちは剣山に登り、残された本隊は橿原を目指したのではないだろうか。

 当時は瀬戸内海の航海ですら非常に危険であった。それで四国から本州に渡る際に、潮に流されて、紀伊半島最南端まで流された可能性がある。そして、海沿いが危険だということで紀伊半島の山中を進んで行った可能性はある。

 こうして考えてみると、何かを比喩しているわけでもなく、実際にそうならざるを得ない事情があったのかも知れない。

 そして、イザナギは出雲から戻ってきて、淡路島を中心に据えて、淡路島で最期を迎えた。そう考えると国生みの神話が実は日本建国の史実だったのではないかと思えてくる。