旅風里美の気まぐれスタイル イザヤ書から見る古代日本の謎

古代日本の謎…それはイザヤ書に隠されていた…

 神道のしきたりは?弥生人はどんな生活をしていたのか?天皇家とは?なぜ天皇は国際舞台でローマ教皇と同列に扱われるのか?そもそも日本人はどこから来たのか?そう言った事柄をイザヤ書から解明していきたいと思います。


イザヤ書2章4節  
 彼は諸々の国の間に裁きを行ない、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはその剣を打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、鎌とし、国は国にむかって、剣を上げず、彼らはもはや戦いのことを学ばない〜

 この預言は世界で唯一成就している。それが日本である。憲法第9条により、まさにこの預言の通りのことが日本に成就している。われわれは戦いを学ばないし、国は国に向かって剣を上げることもない。

 これはGHQに支配下にあった日本において進駐軍に志願して入った在米ユダヤ人と日本人の努力の結晶が今日の平和を築き上げたと言っても過言ではない。決して後ろに戻ってはならない。

 しかし、そもそもそれを許容する風土はどこから生まれたのだろうか。それは弥生時代の風習を考えてみる必要がある。

 弥生は(やよい)と読むが、弥生時代には(やふ)と読まれていただろうと言う説もある。そしてヤフとはヘブライ語のヤフディの省略形とも言える。そしてヤフディとはユダヤ人のことである。弥生人は実はユダヤ人だった…と言う説もこう考えてみるとあながち眉唾話ではないようだ。(実はユダヤ人を蔑視する隠語として用いられていたのがYahooだったとか。)

 天皇家がダビデ王家の正当な継承者だとも言われる。確かに神ヤハウェがダビデに約束されたとこしえにダビデの子孫が王座に就くと言う約束は天皇家がダビデ王家の継承者だとすれば納得がいく。なにせ南ユダ王国は紀元前584年に滅亡し、ゼデキヤ王で王家は断絶したからである。中東ではダビデ王家は断絶したのである。

 

 イザヤが信仰の強い人たちを率いて南ユダから日本へ向かったと言う説もある。今回はその節を説に日本がどのように成り立ったかを考えていこうと思う。

 イザヤが指導者として民を率いたとすれば、イザヤ・ナギッド(統治者イザヤ)と呼ばれていたと思われる。そしてイザヤの妻はイザヤ・ナミ(イザヤ王子または王女)の意味で呼ばれていたと思われる。早口で言うとイザヤ・ナギッドはイザナギでイザヤ・ナミはイザナミ。国生みの神々は実は聖書にも出てくる実在したユダヤ人だったと考えると、日本が何のために建てられ、そして王朝(皇室)が2676年も続いているか。その意味も何かあるように思われる。

 イザヤの2人の息子とイザナギの2人の息子についても、日本の建てられる理由が込められている気がする。上の子シェアル・ヤシュブは「生き残った者はヤハウェに立ち返る」の意味でツクヨミは「ヤハウェの救いが成就する」の意味。下の子マヘル・シャラル・ハシュ・バズは「獲物を捕らえよ急げ」でスサノオは「二輪戦車を引く馬で土地を手に入れる」の意味。

 そう考えてみると、南ユダ王国が滅亡に向かっている時、信仰を保ってる人たちを救い出し新しい地に植え直すと言うのが日本建国の目的だったのではないかと思う。

 そして、事実、紀元前の日本は長寿の国として中国では有名になり、秦の始皇帝が不老不死の薬草を採りにいくよう使節を遣わしたほどであったことは、当時の日本が神に祝福され、長命を楽しむ生活をしていたように思える。

 しかし、なぜイザヤ一家は故郷を捨てて新天地に行かなければならなかったのだろうか→イザヤとヒゼキヤ王を悩ます忌まわしいしきたりへ